ミセス・パッパラのシラフの日常

35歳で始めた禁酒をきっかけに、映えないけど光さす日常を満喫中

35歳に禁酒を始めて新たな人生を謳歌している中年ワーママが映えないけど満足した日々を綴ります。

だから私は日本の政治について本気で考えてみた〜その壱 私が考える理由〜

2020年の年初、コロナ渦が世界を覆う前に私は1年間の禁酒を自分に誓った。

思えば、私は18歳で上京してから、酒に飲まれていた。何度か変な事件や事故にあってもおかしくないくらいの飲み方だった。(実際に危ないことは何度かあった。。)

子供が生まれても飲酒習慣は続き(妊娠中は泣きながら我慢した)、子供が生まれたことによる仕事と育児家事の忙しさで全く時間に余裕がない日々だった。

例年のように、年末からお酒をたらふく飲み、ボーッと1月2日に箱根駅伝をみながら「ああ、そういえば新年だから今年の抱負でも考えるかね」と考えた瞬間、「でもどうせ抱負とか新しいことを始めようと思ったところで、時間もないし絶対叶えられないし、やれないでしょ」と心の中で打ち消した。

その瞬間、何となく人として、親としてどうなのかという悲しさ、焦燥感が生まれた。人生100年時代、あと65年間も自分を諦めて生きていく現実と向き合うなんて、辛すぎる。

「何も新しい目標を立てる気力がないのであれば、せめて自分の悪習を断ち切ってみてはどうか。例えば禁酒とか。とりあえず1年間。」自分で自分を諦めている現実を悟った直後に、こんなアイデアがふと思い浮かんだ。2020年1月2日のその瞬間から、私は禁酒を開始した。

そして、目標の1年を経過し、今後も基本的に禁酒をしていこうと決めている。

1年以上の禁酒生活と共に、コロナ渦は経過していった。その中で、シラフの頭ではもちろん、酔った頭で考えてもこの決定おかしいでしょ、という決定が次々と行われていくことを目にした。

2020年3月に突如として発表された全国一斉休校、布マスク配布(総額500億円超で20年に日本で大ヒットした鬼滅の刃の興行収入300億円を遥かに超える)、感染リスクが高いと言われる複数人での飲食を促進するgo to eat キャンペーン、相次ぐ政治家による複数人での会食報道、この記事を書いている現在(21年1月16日)全く感染も医療崩壊も収束の目処が立たないにもかかわらず、オリンピックを実現するという方向性、整合性の合わない桜を見る会説明(というか明らかにおかしいでしょ)、それらに対する説明責任を放棄したとしか思えない要領を得ない説明、などなど。

10数年振りにシラフの頭で聞いていると、年間100兆円超というトヨタの1年間の純利益の50倍超の膨大な予算配分を決定し、500人以上の国会議員、省庁職員等々を抱える結構な規模の運営体として、そしてその決定が与える影響力を考えると、現在の政治体制がもたらす意思決定プロセスにはかなりの欠陥があるんじゃないかと、いやが応にも感じられるようになった。こちらは、2人の幼子を抱えるフルタイム勤務のワーママでそんなことを考えることに時間を使いたくない。国会議員は選挙で選ばれて多くの給料も税金から支払われているのだから、その分長期的によりよい未来になる様にしっかり仕事してくれよ、安心してこっちはこっちの生活をさせてくれよ、政治に関する疑念とか抱かさないでくれよ、そう思う。でも残念ながら、現実はその願い通りではないように思える。

このまま「これじゃない感」の意思決定が繰り返されたその先に、自分の愛すべき子供達がより暮らしやすい日本になっているのか、甚だ不安だ。

だから、私は日本の政治について本気で考えてみたい。

もちろん、今感じている不安が調べた結果杞憂であることがわかって、全然大丈夫だった、という結論であることが一番望ましいし、楽だし、安心して私も子育てと仕事に専念できる。でもそうではないのであれば、その原因を自分なりに探り当てて、自分なりの提言を考え、それに向かったアクションを微力でもとっていきたい。

 

私にとって理想の日本の未来はこうだ。「元気があれば何でもできる。元気がなくても何とかなる社会。」第一子が生まれ、自分よりも遥かに大切な存在に出会った時、この子が生きていく社会はどんな社会がいいんだろう、と思った時に浮かんだ言葉だ。

(元気があれば何でもできる。はみなさんご存知のアントニオ猪木さんの名言。ほんと名言)

我が子だけではない。我が子だけ何かしらうまくやって、物質的にも精神的にも満足な状態で暮らしていって、保育園で出会ったこれまた愛すべきお友達の誰かが物資的、あるいは精神的に不満足な状態からどうにもならない状態で過ごさなければならないのだとしたら、そしてそれが一定程度の確率でよく起こってしまうのであれば、それは悲しい社会だ。

だから、元気があれば何でもできる、だけではない。元気がなくても何とかなる社会も担保されていること、これが私にとっての理想だ。

 

社会的に何のインパクトも有しない中年主婦が描く社会への理想、なんて誰も興味がないと思う。うん、ないよね。。ないない、、(でも私はあなたの信条を聞くことに興味があるし、それを話してくれたことでもっとあなたのことが好きになるタイプだ。それに皆がそれぞれ当たり前の様に社会の理想を語れるって結構素敵な世の中なんじゃないかと思うよ。まあ現実的ではないけどね。)

多分、これから日本の政治ついて自分が書いていく中には、絶対にこの信条に基づいたバイアスのかかったリサーチ、原因考察、提言が入ってくるので、最初に記載が必要な前提条件として書かせてもらった。

 

なにぶん、この10数年間酒を飲みすぎて、自分のこの信条が資本主義、社会主義、自由主義などのどの思想に入るのかわからない。でも社会主義のように聞こえるけどそうではない。元気があればなんでもできる、はどちらかというと資本主義。元気がなくてもなんとかなるは社会主義より。多分、それを混ぜ合わせた北欧主義、というものなのだと思う。ということで、これからの記載は北欧主義の私が日本の政治について本気で考えてみた、という前提付きで読んでもらいたい。

最後に、これから本題に入るにあたり、なぜ私が書くのかに関するエピソードをひとつだけ。

 

愛する娘が3歳の誕生日を迎える少し前、ベッドに並んで寝る私にこう尋ねてきた。「ねえ、ママ、3歳のあとは何歳になるの?」「4歳だよ。」「じゃあ4歳のあとは?」「5歳だよ。」「5歳のあとは?」「6歳だね。」「じゃあ6歳のあとは?」x20くらいのやりとりを繰り返したあとに、娘は少し考え込み、そのあとパッと顔を輝かせてこういった。「ねえ、ミツ(娘の仮称)これからそれに全部なれるの?」そこには、生に対する眩しいまでの全面的な肯定が宿っていた。「うん、ミツ全部なれるよ。ママ全部お祝いするね!ミツ、一緒に元気でいようね!」言いながら、私は何だか泣きそうになった。

そして、この子の生に対する全面的な肯定にこれからも一点の曇りがないように、強く願った。

そのために、私はこの子たちが育つ環境の中で大きな要素の1つである日本の政治についてこれから本気で考えるのだ。

 

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